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静岡の歴史について、古代~現代までダイジェストで御紹介します。

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旧石器時代~鎌倉幕府滅亡まで

「三ケ日人」「浜北人」など、旧石器時代は愛鷹山麓・北伊豆地方・磐田原台地に居住していたようです。縄文時代となると、前半は東部に、後半は西部にその遺跡が見られます。弥生時代には、静岡全土にその遺跡の分布が見られるようになります。

古墳時代の古墳跡が県内にも見られる事から、地方勢力の存在が確認出来ます。しかし、伊豆地方には古墳跡が発見されていない事から、有力な地方勢力はなかったのではないか、と見る向きもあります。

旧事本紀(くじほんぎ)によると、静岡県は「遠淡海(とおつおうみ)」「久努(くど)」「素賀(そが)」「廬原」「珠流河(するが)」「伊豆の国」があったとされます。大化の改新以降、「遠江国」「駿河国」に統一されます。そして天馬や駅家(はゆま)が置かれ、整備されます。

更に時代は下り、源頼朝は、蛭ヶ小島(韮山町)に流されますが、北条時政の助けを借りて、平家の伊豆目代・山木兼隆を滅ぼします。頼朝は鎌倉に本拠を置き、富士川の合戦で平維盛・忠度らの大軍を破り、武田信義を駿河守護、安田義定を遠江守護に任命します。鎌倉幕府が滅びると、安倍川で新田義貞は合戦をします。

今川氏誕生~戦国時代開始まで

三河国の守護であった足利義氏の子・長氏は吉良氏を名乗り、長氏の次男・国氏は今川庄に居住し、今川姓を名乗ります。今川国氏の孫・範国は、足利尊氏軍に従い、1333年遠江守護に任じられます。範国の子・範氏は、南朝方の佐竹氏や土岐氏と闘い、駿河国守護を父から譲られます。範氏の子・範政は駿府に今川館を拠点とし、賤機山(しずはたやま)城を築城します。範氏の子・範忠は、1438年永享の乱や、結城合戦で活躍します。

範氏の子・義忠は、応仁の乱で、細川勝元の東軍につき、上京して闘いますが、残党の夜襲により命を失います。義忠の子龍王丸は6歳だったので、小鹿範満が後見人となります。龍王丸成人後も家督を返さなかった為、義忠の妻の兄である北条早雲が小鹿範満を滅ぼします。龍王丸は氏親と名乗ります。戦国時代の今川家の事は、こちらのページを御覧下さい。

江戸幕府開府~明治維新まで

江戸幕府開府以降、徳川家康は、1616年に没するまで、駿府城で政治の実権を握り続けます。1609年、徳川頼宣は駿遠50万石を与えられ、家康と同居します。1619年、頼宣は和歌山城主となり、家光の弟・忠長が駿府城主となりますが、改易され自刃します。その後、由比正雪の乱を経て、駿河・遠江の殆どが天領・旗本領となります。

東海道五十三次・菱垣廻船・樽廻船の通り道となり、駿府・遠江は発展します。白隠・福田半香・平井顕斎などを中心に、江戸庶民文化を盛り上げます。1854年、日米和親条約により、下田は開港されます。その後も、ロシアやアメリカの使節が来日し、下田は幕末の重要な外交拠点となります。

版籍奉還までは、徳川家達が駿府・遠江を治めます。この頃、駿府藩は府中学問所・沼津兵学校を設立し、学問の普及に努めます。版籍奉還以降、伊豆と相良で「足柄県」、静岡藩は「静岡県」、堀江藩は「堀江県」となります。堀江県は廃止され、駿河は「静岡県」、遠江は「浜松県」となります。伊豆七島を除き、伊豆と浜松、駿河の地域は「静岡県」となり、現在の区分けとなったのは1878年の事です。

参考文献

静岡県の歴史散歩 監修 式守富司 福田以久生 株式会社 山川出版社発行



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