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今川家についてのまとめ

今川家は、今川国氏を始祖とし、(六代略)-義忠-氏親-氏輝-義元-氏真と続く名門です。「足利に将軍の継嗣が無い場合は三河の吉良が継ぎ、吉良にもない時は、駿河の今川から将軍を出す」と公然と定められている程でした。

氏親は、家督争いの後、遠江を平定し、分国法を設置するなど、守護大名から戦国大名への転身を遂げます。その子の氏輝は、北条氏綱と関係を保ち、武田信虎と闘います。氏輝には子が無く、氏輝の弟・義元は、異母兄の玄広恵探を倒して、家督を継ぎます。義元には氏豊という弟が居て(弟かどうかは異説あり)、尾張国那古屋城を守っていましたが、織田信秀に城を奪われたようです。

善得城の会見の後、今川・北条・武田は三国同盟を結び、今川義元の版図は、尾張東部にまで及びます。松平広忠の死に乗じ、三河を平定して、最盛期を迎えます。松平元康は、駿府に人質として送られ、11年間の人質・属臣生活を送ります。元康はそこで、今川家の家臣・関口義広の娘であり、今川義元の姪である築山殿と結婚します。築山殿との間には、後に謀殺された信康、亀姫が生まれます。亀姫は、後に盛徳院と名乗り、奥平信昌と結婚します。奥平家は幕末まで存続します。

1560年5月、三カ国の軍勢を率いて、西上を図った今川義元ですが、織田信長の奇襲を受け、戦場の露と消えます。その時の織田信長の言葉として「太刀の下は地獄よ、生死は一定の定め事、この期に及んで相なし」と武功夜話に伝えられています。その後は氏真が家督を継ぎましたが、武田、松平に領地を奪われてゆきます。

桶狭間の合戦の敗北より9年後、大名としての今川家は滅びます。
しかし子の氏真は北条氏政・家康に養われます。今川義元の曾孫にあたる今川直房は、1636年、従五位下侍従に任じられ、刑部太夫を名乗ります。そして直房は、将軍家高家衆に列せられ、典礼などに奉します。直房は、千宗旦を知遇し、茶会の交遊があったようです。千宗旦は千利休の孫にあたります。こうして、守護大名から戦国大名に転じた今川家は、高家衆としてその名を残す事になるのです。

名軍師・太原雪斎と今川家の名将たち

太原雪斎は、富士の善得寺の僧侶で、九英菊斎と称していました。のち、妙心寺の長老になって紫衣を賜る程の高僧になります。義元よりも20歳程年上だった雪斎は、義元の家督獲得にも尽力します。北条と武田との三国同盟も、雪斎によるものです。雪斎が生きていれば、桶狭間の戦いはなかったとも謂われています。雪斎は、1555年に没しています。朝比奈家、岡部家も今川家に仕えていましたが、桶狭間以降、今川家は求心力を失い、その家臣団は北条家や武田家、徳川家に吸収されます。岡部元信は、桶狭間の戦いで、義元の首級があげられてからも奮戦した、と言い伝えられています。 

義元逝去より年は下り、遠江が徳川家康の統治下となった頃、遠江で、美濃の陶工・加藤庄右衛門景忠が、五郎左衛門と称して、小堀遠州の好みで茶器を焼き、遠州七窯の一つとなったようです。

おまけ・今川義元の4コマ漫画

引用・参考書籍

天下取り採点戦国武将205人 新人物往来社編 新人物往来社発行
戦国人名事典コンパクト版 新人物往来社編 新人物往来社発行
信長の野望Online事典 監修 シブサワ・コウ 発行 株式会社コーエー
茶道事典 監修 井口海仙・永島福太郎 発行 淡交社
戦国大名の名言に学ぶ 武田鏡村著 株式会社創元者発行



 
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